暴君ハバネロ特区

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暴君誕生秘話?!イタリア・ローマ紀行

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「暴君ハバネロ」にはルーツが2つあるのをご存知だろうか?

「ハバネロ」の故郷メキシコ・ユカタンがルーツの1つであることはこのHPを読んで頂いている人たちには周知の事実だと思うが、メキシコ以外にもう1つあるのだ。それは、イタリア。
「暴君」という名は、ローマ皇帝ネロに由来している。
皇帝ネロは広く「暴君ネロ」として知られている5代目のローマ皇帝。16歳の若さで皇帝となったネロがなぜ「暴君」と呼ばれているのか? そこには悲しい歴史があるのだ。
「ハバネロ」が、辛さで火照った体をクールダウンする度に偲ぶ、若き皇帝の悲劇。そうして、「ハバネロ」は、いつしか自らをネロに置き換え、「暴君ハバネロ」と名乗るようになる…。そんな「暴君ネロ」を偲ぶ旅に出た、「暴君ハバネロ」。では、その「悲劇」とは?ネロの人生をきちんとおさらいしてみよう。

 


 いざ、ローマへ出発。

1.母アグリッピーナの陰謀により皇帝に即位

0037年にアグリッピーナの息子として生をうけたネロは16歳の若さで皇帝に即位する。しかし、それは母の陰謀によるものであった。先帝クラウディウスの妻であるアグリッピーナは、皇帝の実子ブリタニクス(母はアグリッピーナではない)を差し置いて、連れ子であるネロ(父はクラウディウスではない)を巧みな陰謀によって皇帝に即位させた。
だが、皇帝の母となったアグリッピーナは、事実上の摂政役として、まだ10代のネロに代わり、圧倒的な権勢を誇ることになる。

2.圧倒的な権力を誇る母との争い

「皇帝にしてやったのは私だ!」と恩を着せてくる母に対し、皇帝として、自分の立場を主張しするネロだが、それに対し、陰謀家の母は圧倒的に攻勢をしかけてくることになる。ついには、(母自らの陰謀により皇帝になることを妨げた)先帝の実子ブリタニクスをもり立て、そして反ネロの狼煙を上げることになる。陰謀家で権力欲の強い母と敵対することになったネロは、離婚問題(母が猛烈に反対)を機に、母アグリッピーナを“殺す”という暴挙にいたることになってしまう…。
「母殺し」は最大の罪。だが、実の母と、血で血を争うローマ帝国の権力争いを繰り広げなければならなかったネロの心中やいかに? 実の息子を押しのけてでも自らの権力を維持しようとするような陰謀家が実の母であったとしたら…。皇帝という立場にいたとき、人はどのような行動にとればいいのか? ネロの悲劇はここから始まるのだ。

3.ネロの善政

若くして皇帝になったネロは当時の人々から人気があったという。「暴君」のイメージがついてしまったため、ダメ皇帝と思われがちだが、その後のローマ帝国の礎となった改革を積極的に行っているのだ。税収の一本化をして皇帝の権力を高め、通貨の改革により財源を確保する。そして、反ローマであったブリタニアとアルメニア・パルティアを巧みな戦争と外交で親ローマに仕向けることに成功したのだ。

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 本当は人口湖になるはずだったコロッセオ
 を前にして想いをはせる暴君。

4.【説明】自ら歌手デビューし、スポーツと芸術に夢中になった愛すべき皇帝

当時の世界における「文化」の中心地ギリシャ文化に傾倒していたネロは、「オリンピア競技会」(いわゆるオリンピックの原型)をローマに輸入した。詩や音楽も愛し文化国家つくりを目指したネロはローマ全体を会場にした「お祭り」を開催するのである。ネロの失脚後、この祭りは忘れ去られていくが、当時は民衆に絶大な支持を受け、盛り上がったそうだ。さらに後年、ネロは自ら歌手デビューも果たす。ナポリの劇場で披露された皇帝のコンサートはものすごい観衆で埋まり大成功だった。(上手かったのかどうかは不明だが…)

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黄金宮殿(ドムス・アウレア)で・・・

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黄金宮殿で結婚式を挙げるカップルを見て

5.緑豊かな理想郷、黄金宮殿(ドムス・アウレア)の建設

芸術を愛したネロは緑豊かな理想郷をローマの中心に再現しようとした。現在コロセウムが立つ場所には広大な人口湖を作り、その美しい湖を正面に見るオピウスの丘に「黄金宮殿」と呼ばれる館を建て、その背後には動物たちを放し飼いにした自然公園を造る計画だったらしい。結局、完成にいたったのは「黄金宮殿」だけだが、その建物は、当時の贅と粋と夢がすべて投入された、最新のデザイナーズ宮殿だったそうだ。

6.滅亡への始まり、ローマの大火

0064年、「ネロ祭」の会場でもあった競技場、「チルコ・マッシモ」の観客席の下の店から出火した火事が、強風にあおられ、ローマ中を焼き尽くす大火事になった。9日間も燃え続けた大火事でローマの大半は被害を受けた。特に中心部ほど被害が大きく、大惨事であった。だが、ネロは先に述べた通貨改革などを駆使して、ローマの再建築を行う。市民全体を巻き込んだ再建策は、市民には評判がよく、再建後のローマは大火前より格段に整然と美しい街になったという。
大火事をいう大惨事をしっかりとした政治力とリーダーシップで乗り越えたかにみえたネロだったが、たった一つ大きな過ちを犯していた。それが「暴君」を決定づけることになるのだが…。

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大火事の原因となった「チルコ・マッシモ」の跡地。

7.キリスト教の迫害

ネロは大火事の原因をキリスト教徒の放火だったとし、キリスト教の迫害を始めた。キリストが十字架に磔にされたのは0033年とされ、死後から始まった熱心な布教活動によりローマにも急速に広まりつつあった。とはいえ、当時は、一神教で他を受け入れないキリスト教は、多神教であり他の宗教に対しても寛容だったローマのルールを乱そうとする敵だと見られていた。そして、一般のローマ市民から嫌われていたという。放火犯に仕立て上げるのにふさわしい存在だったのだ。ただ、キリスト教の迫害はネロ以降の0313年のコンスタンティヌス帝のキリスト教徒の自由を認めた勅令まで、何度も行われている。にもかかわらず、ネロが後のキリスト教社会から「暴君」とされ「キリスト教の敵」とされていったのはなぜなのだろうか?

8.ネロの追放と転落「これで一人の芸術家が死ぬ」

歌を歌ったり、芸術に夢中になったりしていたネロは民衆には人気があったが、周りの権力者からは「皇帝」の資格に対して疑問をもたれるようになる。そして、次々と反乱がおき始めるのだ。にもかかわらず、ネロは憧れの文化の中心地、ギリシャへの旅を行ったりしていた。そうしているうちに側近たちからも裏切られ、とうとう、ネロは「国家の敵」とされ、追放されるのだ。逮捕されるとわかったネロは自殺を決意する。
彼の最期の言葉は「これで一人の芸術家が死ぬ」だったそうな…。

なぜネロが「暴君」と言われるのか?

確かに治世の後半は政治よりも芸術に夢中になり、皇帝から追放されている。けれども決して「悪政」だけを行っていたわけではないし、民衆にも人気があった。「母殺し」にしても悲劇的な側面がある。
恐らく、初めてキリスト教を迫害した皇帝だったからだと思われる。後に、キリスト教の中心地になるローマにおいて、「母殺し」、「大火事」、「芸術好きなパフォーマー」などなど、隙の多い皇帝であったことは確かなのだ。「暴君」と思わせて「悪者」にでっち上げるネタが豊富だったのだ。
実際のネロは、芸術を愛する純粋な人間だったのだろう。母の陰謀により皇帝にでっち上げられさえしなければ、周りから愛される、洒落ものだったはずなのだ。

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イタリアといえばパスタ。下町の
トラットリアで本場のパスタを
味わう「暴君ハバネロ」。

その「辛さ」で人の舌を痛めつけている「暴君ハバネロ」だが、性根は純粋。 「辛さ」のなかに「ウマさ」が隠れているのは、皇帝ネロの「暴君ぶり」に隠された「芸術愛」みたいなものなのだ。

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参考文献:「ローマ人の物語 悪名高き皇帝たち(四)」
塩野七生著 新潮文庫刊

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